日本型教育の失敗


戦後、新しい民主主義体制のもと、日本再生がスタートしましたが、それには教育が最も重要な柱の一つであるはずでした。そうです。日本国憲法にも高らかに謳われている基本的人権の尊重を具現化すべき教育のはずでした。

しかし基本的人権の根幹たる個の確立に資する教育がなされてきたかといえば、それは残念ながら大変疑問です。私が子供の頃から今になるまで最も疑問に思っていたのが運動会でした。

なぜ競争によって勝者と敗者をわざわざ作り出さなければならないのか、そしてなぜ号令一下、本来は必要のない教えられた通りのことをしなければならないのかと。社会的協調性やルール遵守の大切さを教えるのであれば、こんなやり方では本当の意味が伝わるはずもありません。盲目的に命令に従う習慣を身につけるだけというのが関の山です。
まるで羊が号令一下飼育舎に集められるように、何の乱れもなく動く姿は今見ても異様です。

そして一番大切な授業ですが、ここが大失敗だと思います。
知識を記憶することに重点が置かれ過ぎています。そして知識を獲得することでほとんど教育が完結してしまっているのです。その先がないのです。
本来はこの知識をもとに、様々な事柄を考え、個々人がそれぞれ独自の考えを持つ訓練をさせることによって教育は完了するはずなのです。
更に言えば、その知識や常識さえも疑い、独自に検証するほどの思考力を身につけさせて欲しいのです。
欧米先進国では多分これが徹底されており、様々な個性が生まれる原動力になっているのでしょう。
今世の中に存在している知識は、何も人が正確にたくさん記憶する必要もなく、調べれば誰でもすぐに手に入れられるものです。そんな知識をたくさん持っていることが価値あることだと錯覚している日本は、今後世界から大きく遅れることになるでしょう。

AI革命が叫ばれてその実用化が現実のものとなりつつあります。そして知識こそそのAI革命によって一番最初に取って代わられるものなのです。

人間が人間たる存在理由は思考能力です。今まで知識として存在しなかった新しいものや概念を生み出す力です。

それこそ個性です。世界にただ一つしか存在しないもの。これを持てるような人間を作り出すことこそ本当の教育です。横並びの物分かりの良い、金太郎飴のような同質の何も考えない人間は、軍隊や独裁国家にとって非常に使い勝手の良い駒でしょうが、実は最も価値のない人間なのです。

欧米のスポーツマンや俳優、ミュージシャンの権力に対する毅然とした姿勢を見るたびに日本がいかに未開の国であるかを思い知らされます。
日本では有名スポーツマンやタレント、ミュージシャン、俳優たちが権力に嬉々として政治利用されています。実に浅ましく惨めな姿です。

この現象の根本は日本型教育の失敗にあります。(専制政治を望む権力者にとっては大成功でしょう。)
ノーベル賞級研究者も今後激減していくことになるかもしれません。そして何よりもAIが普及した社会でどれだけの労働者が生き残れているのかが大変心配になります。

少なくとも自民党政治、特に安倍政権類似の政治が続けば続くほど日本は衰退して行くことでしょう。自民党は戦前から続く旧体制の維持が目的の政党ですから、できるだけ国民をコントロールしやすい臣民にすることを目指しているのです。安倍政権ではそれが最も先鋭化した形で様々な政策に現れています。
教育の破壊が顕著で、このまま行けば10年後にはほとんど戦前同様の日本になっていることでしょう。そうなればもはや自己修正は不可能で、第二次世界大戦のような破局的外的要因でしか日本は再生できないでしょう。