最近の日本について思うこと

ずいぶん昔になりますが、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」を読んだことがありました。何しろ40年以上前のことなので詳細は覚えていないのですが、そこで一番印象に残っているのが自由であるためには自立した考えを持ち、他者に依存せず、そのためには不断の努力が必要で強い意志を持たなければならない、だから非常に大変なことなんだということでした。

社会で生きていかなければならない人間は大なり小なり必ず組織に属しています。国に始まって、地方自治体、企業、町内会に至るまで、それぞれの組織の一員として行動することが求められています。その一方で、個人個人の内面的な活動も並行して存在しているわけで、組織のルールとその個人の内面の規範とが衝突することが必ず起こるはずです。そこで考えることを止めて機械的にそのルールに従うことを選択すれば非常に楽で簡単ですが、それは言ってみれば自由を放棄したことと同じです。ではどうすれば良いか?

「面従腹背」です。実際、心ある人は皆このスタンスで社会生活を営んでいるはずです。個人レベルで組織と真っ向から戦うことは馬鹿げていることで、潰されるだけです。しかし内面まで組織に迎合してしまったら個は消えます。もはやその人は自由ではなく組織の一部として機械的に従属するだけの存在になるのです。個として自由であるためにはその内面の自立的な意思を保ち続ける必要があるのです。そしてその自立的な意思こそが民主主義社会において大きな役割を演じ、世論を形成し選挙を通じて社会を変革していくのです。

寄らば大樹の陰とはまさに「自由からの逃走」です。何か大きな力に頼って守ってもらえれば安心ですからね。何もせず何も考えずただ陰の中にいれば良い。楽チンです。でもそれでは生涯その陰の中に閉じ込められて、外の世界を知ることはできません。
もしかしたらその大樹と思われていたものはとても小さな木でその陰もとても小さなものなのかもしれません。あるいは日が当たらず寒々として非常に過酷な環境なのかもしれません。外の世界を知らなければそれさえも分からないのです。そして何も考えなければ、それが大樹であってももう寿命が尽き腐りかけ、今にも倒れかかっていることにも気付けないのです。

今の日本の国民の大部分がこんな状態になっているような気がしてなりません。
人間の最も大きな力は考える力です。
虚弱な人間が、生物の頂点に君臨できたのも考える力があったからです。
その人間にとって最も大切な力を、今の日本国民は放棄したように見えてなりません。
デマや嘘を見抜き、真実を見分ける力を多くの人が持っているにも拘わらず、考えることを止め、自由であることを放棄した先に待っているものは不自由であり、一方的な隷属です。今の日本にはまたあの太平洋戦争に突入した忌まわしい過去に似た雰囲気が漂っているような気がしてなりません。