以前からずっと気になっていたメディアの世論への影響について非常に分かりやすく平易に解説している本を見つけた。
NHK出版から発売されているムック本、『メディアと私たち』だ。
リップマン『世論』、サイード『イスラム報道』、山本七平『「空気」の研究』、オーウェル『1984年』の4冊を取り上げながら、鋭い分析力で定評のある4人の論者による紹介と解説をまとめている。それぞれが著名な本ばかりなので既に読んで知っている方々も多いと思うが、私は書名は耳にしたことはあるものの、今まで直接読んだことはなかった。

内容があまりにも盛りだくさんなので、今回は堤未果さんによるリップマンの『世論』の解説だけを取り上げる。

ウォルター・リップマンの『世論』は、ジャーナリストのバイブルと讃えられる一方で、メディアを用いた「世論操作」のバイブルとして世界中に非常に大きな影響を与えた。現に第一次世界大戦において不戦を表明していたアメリカを参戦に180度転換させたのも、リップマンによって作られた筋書き通りに世論を操作した結果だった。大衆を「世論操作」によって戦争に導くことも可能であることが証明されたのである。

大衆が自発的に優れたリーダーを選べば民主主義は正しく機能するという考えは幻想である。
民主主義政治によって政治権力が正しい方法で選ばれたとしても、その政治権力は必ずしも大衆の意思通りに動くものではなく、大衆が知らない勢力の意志に従って権力を行使するものである。もっとも、もともと大衆には意志などというものはなく、単にその時の雰囲気や気分など、極めて雑多な情緒的感情的なもので、簡単に色々な形に変えられ得る漠然としたものである。そこを利用したのが「世論操作」なのだ。

「世論操作」を上手に行えば、大衆は自分が考えていないことでも、あたかも自分が考えていたかのように錯覚させられてしまう。それが顕著に現れたのがアメリカの大統領選挙で、オバマからトランプへの揺り戻しである。オバマへのメディアによって作り出された幻想が砕け散り、その反動が怒りとなってトランプ大統領を出現させたのである。そのトランプ自身ももちろん、オバマを飾り立て持ち上げていたメディアに対する大衆の強烈な不信感を利用して世論操作を行って大統領選に勝利したわけで、それはオバマと全く変わらないのだが、、、いいように弄ばれたのはいつものことながら大衆なのである。

以上のように大衆の合意というものが世論操作によって形成されうるものだとしたら、大衆の「合意による統治」という民主主義政治の原則は、重大な欠陥を持っていることになる。
逆に為政者にとっては国の統治にこれほど強力な手段はない。今や政治形態に拘らず世界中の国で、「世論操作」が国の政策を成功裡に進めるための重要な手段として利用されていると思われる。

旧来のメディアであるテレビ、新聞、雑誌などは私企業であり利益の獲得が最優先である。従って有力なスポンサーである巨大企業への依存度は極めて高い。その巨大企業は自らの利益拡大のために政府と密接な協力関係にあり、政府の政策は巨大企業を利するために進められる。所謂コーポラティズムである。そして当然の帰結としてコーポラティズムによる政策を成功させるためにメディアが利用されるのである。

特に近年のIT技術の進歩と普及によって情報のコントロールが広範に高速に行えるようになってきた。国が大手のIT企業を抑えることによって大衆の世論形成を自在にコントロールできるようになりつつある。
実際、検索大手のGoogleとアメリカ政府が協力関係にあったことが明らかになっている。中国やロシアなどのほぼ独裁国家においては既に情報通信分野は完全に政府のコントロール下にあるが、アメリカのような典型的な民主主義国家においても、水面下では政府による情報コントロールが行われているのである。

メディアによって発せられるニュースの受け止めには常に慎重であるべきだ。それは前述の通り、スポンサーによる制約や、ニュースを制作する担当者の持つステレオタイプによるバイアスなど、様々な要因で変調される。決して中立不偏ではあり得ない。従って受け取る側はニュースは単なる「合図」であり、「真実」は自らが様々な情報源に接することによってできるだけ多くの「事実」と思われるものを収集して分析することによってのみ知りうるということを肝に銘じるべきである。さもないと人は気付かないうちに考え方が一方向に偏ったステレオタイプに嵌ってしまい、真実から遠ざかる結果になってしまう。特に最近気を付けたいのはSNSである。これは利用者が好むと好まざるに拘らず、利用者の気に入った情報を優先的に提示する。従って利用者は元々持っていたステレオタイプが更に強化され、客観的視点、真実から遠ざかってしまうのである。

大衆を操る「世論操作」、我々は、意志のない人形のように巨大企業や権力者たちにいいように操られることなく、意志を持った独立した人間として賢明に振る舞いたいものである。我々は人形でも家畜でもないのだ。