前回のその1では、リップマンの『世論』について取り上げたが、今回は山本七平の『「空気」の研究』についてまとめてみた。

「空気」という現象は西欧社会ではあまり見られず、日本独特のものとも言える。著者の山本七平さんは多神教と一神教にその違いの根源があるのではないかと言う。
多神教では様々なものを不可侵のものとして絶対視する傾向が強く、いつの間にか醸し出された雰囲気が偶像化され異論を許さない絶対的なものとして人を支配するようになる。
一方の一神教では神そのもの以外のものは相対的にしか見ない。神以外のものは相対的な存在で良い面もあれば悪い面もあると捉え、様々な議論を生むことになる。従って日本のように絶対的な「空気」が場を支配することはなく、盛んな議論が行われて様々な考え方が提示される。

日本的会議の多くが満場一致で大した議論もなく時間通りに終えるのは、まさに会議を「空気」が支配しているからに他ならない。海外投資家が多くなった最近の株主総会が、異論続出で紛糾するようになったことが話題になっているのは、今までの日本の株主総会が全て「空気」によって支配されていたことの証にも見える。

でも私は「空気」というものが、日本において人間の行動に強い影響力を持つ主な原因は、日本の教育方法に根ざしているのではないかと思っている。いつ頃から始まったのかは分からないのだが、少なくとも戦後からはずっと続いていると思われる運動会が、日本教育の特徴をそのまま表しているように思う。
集団で行動する、みんなと一緒に遅れないように、列を乱さないようにと気を遣う訓練をする。協調性が美徳として尊ばれ、自分勝手な行動は戒められる。こんな教育が幼稚園の頃から続けられたらどんな人間に育つだろう。
集団から外れないようにいつも周囲をキョロキョロと見回し、できるだけ一体化しようと気を遣う。これこそ「空気」を読む行動そのものなのではないだろうか?
そういえば「出る杭は打たれる」という諺もあったりする。日本では「空気」を読むことが普通だったのだということに改めて気付かされる。

こんな国民は為政者にとっては非常に統治しやすく好ましいことだろう。専制国家などではマスゲームや軍事パレードが盛んに行われる。同じ「空気」の醸成が完成したことを確認する場でもあるのだろう。

一般的に「空気」というものは、比較的小さな集団で作り出されるものだが、現代世界ではメディアによって作り出される大規模な「空気」が存在する。この中には前回の「世論」でも触れた国家レベルの意図的な「世論操作」による「空気」の醸成もある。
この場合にはもはや一神教、多神教関係なく、日本だけでなく欧米各国にも存在する。

アメリカでの9.11からイラク戦争への熱狂は、まさに国家によるメディアを利用した「空気」醸成の最たるものであった。

「一億玉砕」、「鬼畜米英」、「八紘一宇」、「自民党をぶっ壊す」、「テロとの戦い」、「チェンジ」、「規制緩和」、「アベノミクス」などなど、様々なスローガンが「空気」となって大衆の思考力を麻痺させて国家の思い通りの方向に向かわせる。

特に主要メディアが同じようなことを一斉に連呼するようになった時は警戒すべきだろう。まさに「空気」を作ろうとし始めていると捉えて身構える習慣を持つべきだ。

竹槍でB29を墜とせないという常識が分かっているのにもかかわらず、大人しく従った日本国民は、「空気」の恐ろしさを嫌というほど経験したはずである。

「空気」に対抗するためにはまさに当たり前の常識をしっかりと持つことで、常にそれと比較して判断する習慣を身につけるべきだろう。おかしいと感じたら距離をとってよく見直すことが大切だ。とにかく自分の頭で考えること、何も考えずに流されたらおしまいである。極端な場合、自身や家族の生命財産にも関わる事態にも繋がりかねないのである。